第5回
補遺(2) 生島閑・高木壬太郎
特種東海製紙㈱常任監査役 三谷充弘(高26回)
「掛中掛西高の伝統を考える」で掛川藩と慶応義塾との繋がりを見て、「東京の横須賀藩士たち」で横須賀藩と東京専門学校・英吉利法律学校(早稲田大学・中央大学の前身)との関わりを見て来たので、東京英学校(青山学院の前身)についても少し述べておきたい。
青山学院第4代院長 高木壬太郎
明治5年に前期掛川中学初代教頭の林惟純が、元会津藩家老の西郷頼母を松崎の謹申学舎の学舎長に斡旋したことは「掛中掛西高の伝統を考える」で触れたが、明治11年4月の東京府知事あての「耕教学舎」開業願に「漢学教員 生島閑 慶応元年讃州の人小橋多助の門に入り、経史文章類を学び、傍ら福地源一郎(※注1)に就いて仏蘭西学を修め、明治3年に至り、駿州静岡学校に於いて仏学教授相勤め、同6年(ママ)足柄県謹申学舎に於いて漢学仏学を教授す」とあり、謹申学舎で生島閑(1854年~1922年)がフランス語を教えていたことが判る。
(※注1 :福地源一郎は元幕臣。明治7年から21年まで『東京日日新聞』を主宰し、政府系新聞記者として言論界で大きな影響
力を持った。池之端に自宅があり、池之端御前と呼ばれる豪遊でも有名だったが、晩年は没落し、自宅は隣人の元.横須賀藩士浅
田正文が購入した)
生島は幕臣で、明治3年、静岡学問所教授(仏学)。同5年、謹申学舎教師。同7年、陸軍兵学寮15等出仕。同19年、大蔵省主税局7等属。同37年同省同局3等属といった経歴だが、その間、明治8年に古川正雄(慶応義塾初代塾長)と共同で東京府に英学塾の開業願を出している。
これは『慶應義塾史事典』(平成20年)の「岡本周吉」(※注2)の項目にある「明治8年3月、神田錦町に錦裔塾(弘道学舎、耕教学舎を経て、現.青山学院の前身の一つとなる)を設立し、英語教師として宣教師ジュリアス・ソーパーを招いた」のことを指すものだろう。
(※注2:岡本周吉は古川正雄の前名。慶応義塾第1期生,初代塾長。幕臣として榎本武揚に同行し、元.掛川藩士甲賀源吾が率い
た宮古湾の海戦に第二回天艦長として出撃するも、機関の故障で参加できず、新政府軍に投降した。『福翁自伝』には「古川節
蔵」として出てくる)
なお、『青山学院九十年史』(昭和40年)によれば、弘道学舎は「古川正雄が神田錦町の私邸内にたてた学校」「耕教学舎は明治11年にジュリアス・ソーパーが築地に開校した」となっていて、前期掛川中学の第2代校長志賀雷山が明治8年7月に内田学校に雇われたかと思えば、2ヵ月後には自分の名前で先憂学校を設立しているようなせわしなさが感じられる。
耕教学舎は明治14年に経営陣が変わり、東京英学校となるが、生島はその創設メンバーの一人である。また明治15年に現在の青山キャンパスの用地(伊予西条藩松平左京大夫上屋敷跡地約3万坪)を見つけてきたのは生島である。明治16年に築地から青山に移転した東京英学校は東京英和学校と改称し、明治27年に青山学院と改称した。
次に青山学院第4代院長高木壬太郎について述べる。
高木壬太郎(1864~1921年)は『若き高木壬太郎』(川崎司,聖学院学術情報発信システム)によると、「元治元年に中川根村の里正・医家の家系に生まれ、明治7年に長尾学校に入学し、同10年秋に下等小学全科を修了後、直ちに遠州掛川村の漢儒(蘭学者とも)岡田清直の家塾に入り、傍ら掛川学校へ通うことになる」、そして「明治11年春、静岡師範学校に入学する」とされている。
私は最初、この文章を見た時に「いくら掛川が田舎でも明治10年に蘭学者はないんじゃないか、岡田良一郎(清行)の冀北学舎の間違いじゃないのかな」と思いました。ところが最近、『用行義塾と戸倉新資料』(小栗勝也,静岡理工科大学紀要)で、明治5年に袋井へ設立された用行義塾の教師が「掛川住居士族 岡田清直」であることを知りました。士族となれば岡田良一郎である筈はなく、前田匡一郎さん(高3回卒)の『駿遠に移住した徳川家臣団』を見たら当たりでした。
岡田清直は同書によれば下記のような経歴です。
安政6年(1859年) 箱館奉行支配定役下役(※注3)
元治元年(1864年) 箱館奉行支配定役元締
明治2年(1869年) 浜松奉行支配割付,横須賀勤番組世話役
明治6年(1873年) 浜松県権少属,浜松第三大区長
明治7年(1874年) 掛川第一小学校長(※注4)
明治11年(1878年) 3月23日没,墓は掛川市仁藤町の天然寺にある
(※注3: 正確には安政2年に箱館奉行支配調役下役となり、同6年に調役が定役と改称された。岡田は安政4年に箱館奉行村
垣淡路守の命により、アイヌに種痘を施していることが村垣淡路守公務日記1月19日条に記録されている。医家の出である
高木が岡田清直に師事したのは、このためだろうか?)
(※注4: 明治6年開校の第2大学区第13番中学区自第1番至第9番小学区掛川学校と思われる)
すると高木は岡田清直の家塾に入り、現在の掛川第一小学校に通っていたのだが、入塾早々に岡田の死に遭い、静岡師範学校に転校したのだろう。その際、なぜ冀北学舎ではなく静岡師範を選択したのかは分からない。あるいは岡田がキリスト者であったのかとも思うが、そこまでの想像は許されないだろう。
静岡師範以降の高木のキリスト者としての活躍も非常に興味深いものだが、掛川・冀北学舎関連のトリビアという本稿の趣旨からは離れるので、ここで筆を擱きたい。