第19回

 『林氏事蹟余話』

                             特種東海製紙㈱常任監査役 三谷充弘(高26回) 

 



林氏事蹟余話(1)

林氏事蹟余話(2)

林氏事蹟余話(3)



明治13年に設立された前期掛川中学校の初代教頭である林惟純については、前田匡一郎さん(高3回卒)が産経新聞に連載なさった「明治の大失業時代-徳川家臣の生きた道-」によると、門人の佐藤鎌三郎が作成した『林惟純先生略歴』があるらしいのだが、今その所在が明らかではない。『林惟純先生略歴』には「江原素六が林惟純の二十三回忌に出席した」という内容の記事があるらしいので、大正7年以降の作成と推測できるが、国会図書館や静岡県立中央図書館にも架蔵されていないので、出版されたものではなく稿本なのかもしれない。

◎佐藤鎌三郎⇒未詳。早稲田大学図書館に「新ニ検地賦税ヲ定メ一国一藩ノ制ヲ立ツルノ議/ 一橋藩 佐藤鎌三郎」(明治3年)が架蔵されているが、この人物かもしれない。

 

そうこうしているうちに、江原素六記念館でもある沼津市明治史料館の木口亮先生から、同館に瀧村鶴雄が明治29年に書いた『林氏事蹟余話』が架蔵されているとのご教示をいただいた。

形態は稿本で、『林氏事蹟余話』と、加藤時雍の林惟純に関する短文(日付なし)と、佐藤鎌三郎の懐旧談(明治31年,題名なし)とが合綴されている。このうち、加藤・佐藤の文章は前田さんが紹介なさった内容と重複する事柄が多いので、ここでは『林氏事蹟余話』をご紹介したいと思う。

なお難読の箇所は書家の原田(横山)優子さん(高26回卒,今年も東京書作展「優秀賞」を受賞し、作品が11月26日(月)~12月2日(日)の間、上野公園の東京都美術館に展示されます)にご教示いただいた。篤く御礼を申し上げる。

◎瀧村鶴雄(1839~1912)⇒旧幕臣。明治維新後は徳川家達(徳川宗家16代目)の家扶。

◎加藤時雍⇒未詳。

 

翻刻にあたっては以下の方針に従った。また、パラグラフごとに注を赤記した。
① 句読点・濁点は必要に応じて補った。また補った送り仮名は( )で示した。

② 漢字は新字体、変体仮名は通行の字体に改め、適宜、漢字に変換した。

③ 「見せ消ち」については、訂正後の単語・語句を表記した。原文の注は[ ]で示した。

 

○幼にして父を喪ひ、其事跡を詳にせざるは成長の後、遺憾やるかたなきものなり。故に余は奇男君の為に知る所を書き記すべし。

林氏が漢学の力は言ふまでもなき事なるが、其英学に至りては知るものまれなり。氏、明治の初め、静岡に移りて後、少しく英書を学ばんと欲する旨を余に語られたり。余すなはちエビシより始めて文法の大意を氏に授けたり。其後、氏は独学を以て普通の英書を読み得るに至り、女訓に関する一小冊子を訳述せられたり。書名はいま記憶せず。

其後、正則尋常中学校にて漢学を教授するにあたり、英文に比較して漢文を説明せし事あり。漢学の老先生には未曾有の事とて生徒は一驚を喫したり。

 

◎奇男君⇒林惟純の嫡男。瀧村鶴雄の意図も空しく、『林氏事蹟余話』の書かれた僅か4ヵ月後に15歳で早世した。惟純・奇男の死後、妻の忠子は四男の義人(10歳),末男の良材(5歳),娘2人と静岡市に戻り、静岡で没した。林家は良材が継ぎ、義人は母の実家である松平家を継いだ。義人の長男の義男は大正2年に静岡市で生まれ、観世清隆(宗家22代,1837~1888)の直門である小沢良輔(1871~1936)に師事して、昭和50年に重要無形文化財総合指定保持者に認定されている。

女訓に関する一小冊子⇒既出。明治12年に静岡で出版されたリンコロン・フェルプス著『女子教草』(Almira Hart Lincoln Phelpsの『Female Studentと思われる)のこと。

◎正則尋常中学校⇒港区芝公園にある正則高等学校の前身。明治22年に外山正一らが設立。林惟純は奇男の教育のため、明治28年に上京して同校の漢学教師になったが、翌年3月に胃癌のため63歳の生涯を閉じた。

 

○氏は心法の工夫をなしたりとの由。曾て静座黙思し、放心を修むるは這裏に在りと自得したる事を余に語られし事あり。後、互いに地を隔て、又、事にまぎれて其口伝を受けざりき。余、今に於て之を遺憾とす。

◎這裏⇒この中。このうち。

 

○氏は周旋方など言へる輩に交はり、幕府の末、国事に奔走する所多し。固より機密に渉り他言せざりしもの実に多からん。余、曾て聞く所を筆記し置きたり。左に之を録す。

 

○其一。林惟純氏と旧事を語る。氏曰く、当時会津嘆願の義に付(き)、惟純及び広沢安任[富次郎]の両人、益満休之助[薩人]同道西郷隆盛に面会する事となり、洩聞を避るため、舟にて品川沖に会すべしと既に日時を約せしに、忽ち彰義隊の征討の事起り、益満も負傷し、遂に会見を遂げざりしは遺憾の事なりき云々。

因みに言ふ、益満氏は江戸見思隊の為め、薩邸を焼討せられし時、単身脱邸し、三田会津邸へ闖入自訴せしを同藩より惟純氏に命じて其事由を紀問せしめたるより、知人となりたり。維新の際、休之助、馬喰町の牢屋より赦出せられ、勝安芳の家に寓居せり。因(り)て惟純氏、之を訪ひ、往事を談し、西郷会見の件に及びしなりとぞ。

◎広沢安任(1830~1891)⇒会津藩士。明治維新後、斗南藩少参事。廃藩後、現在の三沢市で牧場を経営。

◎益満休之助(1841~1868)⇒鹿児島藩士。慶応3年に江戸市中の攪乱作戦を指導。翌年、彰義隊との戦いが元で死亡。

◎西郷隆盛(1828~1877)⇒この方は説明不要でしょう。

◎見思隊⇒未詳。

◎勝安芳(1823~1899)⇒この方(勝海舟)も説明不要でしょう。

 

○其二。惟純氏曰く、会津降伏の時、官軍よりの命令には容保父子の一命を助けらるべし。首謀人の首を斬(り)て出すべしとなり。木戸孝允、会津の武井寛平と相知るにより、内意を伝へて曰く、官に於ては秋月悌次郎[胤永、号韋軒]・手代木直右衛門の両人を首謀人と認定せり。之を斬るべしとなり。然るに会津には君臣一致して偏に朝廷の御為め、又徳川家の為めと思ひ、尽力せしが、事情の齟齬より此に至りしものにて、誰の首謀、誰の反逆とさすべきもの一人もなし。秋月・手代木二人を斬ると言ふ事、甚(だ)不都合なりとの藩論なり。惟純氏も大に此説を主張せり。然れども罪人を出さざれば主人の一命も助けられずとの旨にて、止むを得ざる事につき、家老職の者、其(の)責を負ひ、割腹し然るべし。主人の一命に代るとあれは、死に就くも遺憾なしとて上席家老萱野権兵衛屠腹と定まり、権兵衛、末期の見苦しからざらん事を希ひ、食後数時間静坐し、衣服を改め、精神沈着、従容として切腹の場に就き、介錯を受けたりとぞ。

◎容保⇒会津藩主松平容保(1836~1893)。

◎木戸孝允(1833~1877)⇒この方は説明不要でしょう。

◎武井寛平⇒会津藩士。

◎秋月悌次郎(1824~1900)⇒会津藩士。江戸の麹渓塾で林惟純と同門。明治維新後は各地の学校の教師となる。

◎手代木直右衛門⇒手代木勝任(1826~1904)。会津藩士。明治維新後は地方官吏。

◎萱野権兵衛⇒萱野長修(?~1869)。会津藩家老。長男の長準は静岡で林惟純に師事している(佐藤鎌三郎の明治31年3月27日付けの記録による)。

 

○其三。惟純氏、又曰く、榎本釜次郎[武揚]等、箱館に拠る久しくして平らがず。朝廷、徳川家に命じて征討せしむ。其主、幼なるを以て辞す。其頃の事なるべし、会津藩某、其藩兵を以て請ひて榎本等を征討し、前罪を償はんとの説を主張す。惟純氏曰く、会津藩と榎本等と意見大同小異ありといへとも、元来、尊王攘夷同心一体の人なり。今、遽に我が藩兵を以て彼等を討たんとす、人情の忍ぶ能はざる所にあらずやと固く執て動かず。其議、終に止みたりとぞ。是等によりて惟純氏の国事に関係せし一斑を窺ふべし。

◎榎本釜次郎⇒榎本武揚(1836~1908)。幕臣。幕府海軍の指揮官として函館で降伏。明治維新後は新政府に仕え、大臣を歴任した。

 

○官軍、江戸に入りし後、氏は会津人たるの故を以て其(の)疑ふ所となり、獄に繋がれし事あり。後、疑(ひ)解けて赦免となりたり。在獄中、大食静臥して日を送りしよし語られたり。余は其詳なる事を記す。

 

○旧幕府脱走戦死者の遺族、飢寒に迫るを以て、赤坂の元紀州邸に入れ、之を救助したり。又、無禄、駿河に移住せん事を願ひ出、貧窮にして進退谷まりたる者をも同邸に入れて救助したり。両者併せて戸数殆ど五百戸。此時、惟純氏、特に命ぜられて之を管理し、愛育する事、赤子の如し。然れども坐して食を仰げば懶惰の風習を生ずるを慮り、各自に職業を授け、一方には米塩薪炭総て半値を以て売渡したり。氏の如くにして終に今や駿河の新封地に移住せしめたるは余の見て知る所なり。

 

○惟純氏の衣服飲食、質素を極めし事は友人皆知る所なり。所謂弊薀袍狐貉と恥ぢて恥ぢざるの人物なりき。

◎弊薀袍狐貉⇒『論語』子罕篇「子曰、衣弊薀袍、与衣狐貉者立而不恥者、其由与」(先生が言われた。ぼろぼろの綿入れの羽織を着て、狐や狢(むじな)の高級な毛皮を着た人と並んで立っても恥ずかしく思わないのは、子路くらいのものだろう。)を踏まえたもの。                                   

    明治二十九年五月 友人瀧村鶴雄記