第12回

金城隠士「掛川時代の回顧」 (4) 趣味生活

 

 

                           特種東海製紙㈱常任監査役 三谷充弘(高26回) 

 


丸尾 文六

堀内 政治郎

月琴を弾く婦人


(大正2年8月29日分)

  都会は人を刺激し、又競争せしめ、田舎は人を悠長にし、又遅鈍ならしむ。故に研究の志を抱く者は、地方に屏居すべきではない。地方は人を遅鈍ならしめざるまでも、分に安んぜしむる。又得意ならしむる。僕掛川に来って大に得意になった。他から得意ならしめられた。境遇が知らず識らずの中に、分に安んぜしめた。当初の希望や、意気はいつしか銷摩し去って、今日主義に陥りたるは、勢い止を得ない。畢竟(ひっきょう)巳を以て新しい頭を有する者と信じ、巳を囲繞する世間を陳々相依る者とする風を馴致し来たのである。新たに学校を開くからというては、演説を頼まれ、親睦会があるからというては、講話を乞われた。函有日報の平山陳平君、大務新聞の林欽亮君と高御所村へ行き、代言人の深浦藤太郎君と共に丸尾文六君の郷里へ赴いた事がある。又農学社に報徳講々中の前に立って、外国の農業を見て来たように話したなど、流行の演説者になってしまった。

 

◎演説を頼まれ⇒昨年の講演資料「文書11」を参照のこと。

◎函有日報⇒正しくは函右日報。(2)で既出。

◎平山陳平(1839~1889)⇒(1)の「磯部物外」の注で既出。ジャーナリスト。

◎大務新聞⇒(1)の「静岡新聞」の注で既出。「大務」は「タイムズ」に由来すると言われる。

◎深浦藤太郎(1856~?)⇒熊本出身。明治期の弁護士(代言人)・判事・検事。明治13年、大江孝之(冀北学舎英学教師)らと謀り、各所で政談演説会を開く。 明治14年~18年、掛川に居住。のち静岡に転居。

◎丸尾文六(1832~1896)⇒池新田出身。明治期の茶業家・政治家(県会議員・県会議長・衆議院議員3期<第2,3,4回>,丸尾は立憲改進党に所属していたため、黒川は親近感を持っていたのかもしれない)。 明治23年(1890年)の第1回衆議院議員選挙では静岡県第4区から出馬し、岡田良一郎との激しい選挙戦となったが、結果は岡田が1,388票で当選し、丸尾は1,185票で次点となった。なお第3位は三橋四郎次(1842~1923。第5,6回衆議院議員選挙で当選)の8票で、「補遺(3)」で触れた波多野承五郎は最下位の1票だった。ちなみに丸尾文六の弟(徳三郎)の孫の謙二が丸尾家の土地を供出して設立した笠南農業補習学校が池新田高校の前身である。

 

 都会に居ると、殊更に娯楽を求めたいと思う気が出ないが、田舎へ引っ込むと、何か娯楽がなければならぬように感ずるのは妙なものだ、釣りに出掛ける、囲碁に耽る、謡曲をやるいったようなものである。僕も将碁(しょうぎ)を指し、月琴を稽古した。同志者と詩会を催したなどは、幾分文学に資する所があった。

 

 校長志賀君は、岐阜、栃木等に、農学校長たるの経歴あり、物理、化学を受持っていた。極めて融通の利く、交際に老(た)けたる人である。前の普通学務局長松村茂助君が、「志賀君は、世渡りの上手な人ですネー」と言ったが、実に適評である。是には内助の功が頗る多いと僕は信じている。夫人たま子、其の人玉の如く、何人と付合っても、人をそらさぬ所は、知友の細君の中に多く其の匹儔を見ない。而して志賀君は、衣服、調度、パイプ、印形の末に至るまで良好品を好む。之を求むるには、嚢中の都合如何を問わぬのである。又夫妻共に客を好む。故に家庭は倶楽部の観を呈していた。同僚代る代る、日夜詰掛けて、謹直の堀内君までが、遂に夫人から月琴の教授を受くるという段に至った。堀内君が月琴に腮(あご)を載せて、一弾しては、ナルホド、ナルホド、と感心したのは、今日なお一ツ話に残っている。夫人一寸俳句をやる。新荘直義、望月宗一、二君はお相手になったものだ。新荘君は聊か文法に囚わるる気味があったが、望月君は器用な句を作った。其後僕等静岡に在って福沢先生を奉じて、三保の松原に遊んだ事があったが、其の時望月君の句に、「鶴舞うや田子の浦曲(うらわ)の春日和」というのがあった。又旅順開城の時、夫人は僕に、「新年に先づ萬歳を筆はじめ」と色紙に書いて示されたが、門外漢ながら僕は何れも面白いと思った。志賀君亦折々運座の席に連なったが、発句は余り天才ではなかったらしい。「暗闇で踏んでびっくり大海鼠(なまこ)」などを傑作とした。兎に角掛川は志賀君の為に、東京趣味を鼓吹された。僕には将碁の好敵手であった。今や旧友鈴木正錬君、掛川中学校にあり。知らず僕と感を同じうするや否や。

 

◎松村茂助⇒掛川の薬屋の息子。妻は静岡の老薬舗野崎衛七の次女俊子。なお野崎衛七の三女ちょうは東京の日本橋に存在した有名化粧品メーカー「岳陽堂」の2代目平尾賛平に嫁ぎ、その孫が歌手・作曲家の平尾昌晃である。松村茂助は(6)で再出。(注)野崎衛七を『東海三州の人物』により「老薬舗」としたが、衛七は明治15年開業の野崎銀行の発起人・副頭取であり(頭取は野崎彦左衛門)、明治21年に野崎銀行と静岡銀行とが合併した後は、明治21年~27年に同行取締役、明治28年~42年に同行監査役という経歴である。なおこの静岡銀行は「静岡銀行」という商号を確保するため明治16年に設立されたペーパーカンパニーであり、合併後も明治38年まで頭取は野崎彦左衛門であった。

◎望月宗一⇒黒川正・平賀敏と並び静岡師範の3秀才と称せられ、静岡県から選抜されて慶応義塾に学んだ人物。明治16年3月の『静岡県職員録』に「県立静岡師範学校一等助教諭 望月宗一」と、また明治17年6月の『静岡県職員録』に「掛川中学校三等教諭 望月宗一」と見える。黒川の回想によれば「末路東西に流寓して遂に浪華に客死」とのこと。

◎鈴木正錬⇒黒川正の静岡尋常師範学校時代の同僚。明治19年12月の『職員録』に「教諭 黒川正(判任官待遇,月三五)」「助教諭 鈴木正錬(判任官待遇,月一五)」と見える。また大正2年7月の『職員録』に「県立掛川中学校 教諭 鈴木正錬(月四四)」と見える。 因みに大正2年7月時点で、掛川中学校の開設メンバーで校歌を作曲したとされる塙福寿は年俸730円,奏任待遇,従七位になっている。