第14回

金城隠士「掛川時代の回顧」 (6) 生徒たち

 

 

                           特種東海製紙㈱常任監査役 三谷充弘(高26回) 

 


松村茂助

澤田(浅倉)仁作


 

(大正2年8月31日分)

 世の中は三日見ぬ間にさくら哉。静岡県の中等教育も、僕が東京から帰って見ると機関は揃っていた。沼津に中学校のあったのは、中学校令のまだ発布にならぬずっと以前からの事だが、静岡、浜松、韮山と県立の中学校が既に出来ていた。静岡では中学校は師範学校と併置されてあった。少し後に至ると、県下五中学校となって、数に於いては各府県通じて中学校は多い方であった。其の等級は兎に角静岡第一、沼津、浜松は伯仲の間にあり韮山掛川亦兄たり難く、弟たり難かりき。此の頃磯部物外君は、師範学校監事にして、県会議長であった。時に有力の議員近藤準平君は、静岡中学校に支那人を雇い入れて、漢文の教授をさせるという意表な動機を提出して、議場に花を咲かせた事がある。何事も幼稚の時代には、没常識の事を言ったり、為したりするものだ。

 ◎ 師範学校監事⇒恐らく師範学校「幹事」。明治19年12月の『職員録』に「静岡尋常師範学校 幹事 重野健造」の職名が見える。

 

 僕創立以来掛川中学校にある、殆ど四年に及べり。而して此の間、養成したる生徒中より、案外社会に人を出した。

 

 足立五郎作君は、軍医総監足立寛君の縁者であったが、札幌農学校の農学士となり、北海道庁に出仕し、日本耕地に関する著書等身ありしも、未だ剞★に附するに至らずして、世を去りしは、干今(いまに)忘られぬ恨事である。

 ◎ 足立五郎作(1867~?)⇒掛川中学で学んだ後、上京して足立寛の指導で津田仙農学社に入学するも、明治17年12月に農学社が閉校したため、明治18年8月に札幌農学校に貸費生として入学し、明治22年6月に首席で卒業。

  明治25年1月の『職員録』に「北海道庁 内務部属 足立五郎作」と見える。

 ◎ 足立寛(1842~1917)⇒足立文吉(神職)の子として国本村(袋井市)に生まる。掛川藩士戸塚敏庵福沢諭吉緒方洪庵に師事。明治28年、陸軍軍医総監

 ◎ 剞★に附する⇒剞劂に附する。印刷・出版すること。

 

 松村茂助君は、家は売薬を業とし、京都大学の法学士となり、岩手県、長崎県等の参事官より、累進して文部省の普通学務局長となり、極めて穏健の意見を持し、省中に重きをなしていたが、不慮の病に掛り、今休養中に在るは、僕の気の毒に思い、且つ同情に堪えぬ次第である。中学時代は、軽率にして、沈着の状なく、教場を噪<さわ>がし、僕が度々大喝を報いた一人なりしが、大学を卒業して、態々<わざわざ>僕を静岡に訪うて呉れた時は、人物が一変していた。令弟叔蔵君亦静岡中学校に在りて、僕と師弟の関係あり。厳君源次郎君、子を教ゆるに一隻眼を具えている。

 ◎ 松村茂助(1869~?)⇒明治27年、帝国大学法科大学卒(京都帝国大学は明治30年創設。また京都帝国大学に法科大学が開設されたのは明治32年であり、黒川の記憶違い)。

 明治29年、岩手県参事官。その後、長崎県参事官文部省参事官などを経て、明治41年、文部省普通学務局長。

 『東海三州の人物』では「彼の傲然たる態度の裡には無邪気な愛嬌あり」と評されている。

 

 浅倉仁作君は、澤田家の養子となり、東京麻布に住し、月島に鉄工所を開いて、日清戦役の時には、二万円儲けたと云うた。学生時代から、世才はあったが、学才はなかった。

 浅倉仁作澤田仁作(1858~?)。榛原郡出身。明治10年、静岡で平山陳平に師事。掛川中学卒業後、上京して海軍に勤務。明治20年、海軍を辞して三田農事製造所の払下げに従事。明治25年、越中島機械製造所を設立。日本攻石㈱取締役。東銀行監査役。

 

 松田喜太郎君は、書記久三郎君の令弟で、東京大学の法学士で、判事となり、弁護士となり、又判事となり、弁護士となって静岡に居たが、中学生時代には僕の前などで、殆ど口、言う能はざりしが、一と度大学に入りてより、口に登龍門を開いて人一倍喋舌(しゃべる)ようになった。

 松田喜太郎⇒未詳なるも明治32年9月8日の『官報』「検事 松田喜太郎」と見える。

 

 井伊谷為蔵君は、林学士となり、御料林技師となりて、東京大久保にいるが、昔は垢抜けのせぬ、野暮な生徒であったが、今は当世風の紳士となり、洋服を着て人を訪問するようになった。

 井伊谷為蔵⇒未詳なるも明治41年5月の『職員録』に「帝室林野管理局 技師 井伊谷為蔵」と見える。

 

  花井孝次郎君は、掛川の士族で、大人は小学校の教員であった。極めて手堅い性質にして、篤学の生徒なりき。赤松海軍中将の書生をしていて、電信学校に通学した。後、鳥取の電信局に居る際、米国の女教師に勧められて、アメリカの諸学校に自身の志望を述べたる書を寄せたるに、其の中の一校長の顧みる所となり渡米して、電気学を専攻し、数年前に帰朝して、東京銀座に立派なる電気機械の見世を開いたが、時機に投じて、旭日沖天の勢いである。

 花井孝次郎⇒未詳。「士族」とあるから、花井貞勝(天保6年=1835年生まれの幕臣,明治3年に掛川勤番組頭支配二等勤番組,拝領屋敷 掛川宿267)の子だろうか。 WEB検索すると、明治35年1月の『電気学会雑誌』「イ、ピー、アリス汽機実試報告」を、大正8年6月の『日本電気協会会報』「蒸気機関の能率増進史」を寄稿している。 前者によるとシカゴで勉学したとある。なお電気学会(初代会長<明治21年~明治41年>は榎本武揚海軍中将),日本電気協会は現存するが、花井の資料はないとのことである。◎ 赤松海軍中将⇒赤松則良(1841~1920)。幕末に榎本武揚らと共にオランダへ留学。◎ 電信学校幸田露伴も在籍した逓信省電信修技学校のことだろう。

 

 学校より人材を出すは、生徒の数に由らずして、質に由る事は勿論である。当時は奨励しても、容易に多数の生徒を得る事は出来なかったが、少数の中より、却って割合に多数の人物を出した訳は、篤学の士が多かったのに外ならぬ。今や中学校は生徒募集期に至ると、門前殆ど市をなすの盛況を呈するが、動(ややも)すれば高等遊民を出すの譏(そしり)を免れず。是に於いて乎、学校に古今なし、と言いたくなる。勝得たり教員は、薄倖、級監の名。

 夫れ掛川は平凡の地なり。平凡に暮して、平凡に勤めていたから、平凡の材料は尚未だ尽きずと雖も、暫く措(おき)て。更に浜松の追懐に移る。