第9回

金城隠士「掛川時代の回顧」(1) 掛川へ赴任

 

                             特種東海製紙㈱常任監査役 三谷充弘(高26回) 

 

黒川 正

外山 正一

林(伊藤) 欽亮


  

   今回から6回に分けて、前期掛川中学の英語教師だった黒川正『静岡民友新聞』に連載した「掛川時代の回顧」(明治13年6月~17年5月)をご紹介したい。『掛中掛西高百年史』にも一部が引用されているが、全文を通読するのも意義あることと思う。

 これは大正2年8月26日~31日まで同紙に連載された往時懐旧談であって、記憶の誤りもあり、また漢詩文を自在に操れた人の文章であるから、その方面では一億総無教養時代に生きる我々にとって難解な箇所も多い。そこで分かる範囲で注釈を加えたので、理解の一助にしていただきたい。当然、誤りも多かろうと思うので、博雅の士のご教示をお俟ちします。

 

 なお静岡県立中央図書館所蔵の『静岡民友新聞』のマイクロフィルムは当該部分が欠落しているので、黒川の曾孫の市原正恵さんが『静岡県近代史研究』第24号で紹介したテキストを用いた。

 黒川の経歴については昨年の講演「掛中・掛西高の伝統を考える」の資料をご参照願いたい(文末にPDFファイルで添付)。

 

 黒川がなぜこのような連載をする気になったかと言えば、伊東圭一郎が明治45年から『静岡民友新聞』に断続的に連載していた人物評論(大正3年にまとめて『東海三州の人物』として静岡民友新聞社から出版された)に触発されたものだろう。同書に寄せられた序文中に「篇中沼津兵学校の一章の如き、君(伊東圭一郎)の叙述に依りて金城隠士を起し、之の回憶談をも叙せしめ、三州人物誌に貢献すること多大なり」とある。

 なお本連載における黒川のペンネーム「金城隠士」は「名古屋の隠居」という意味である。

 

 以下、原テキストを段落ごとに区切り、本文は黒字、注は赤字で表記する。なお原ルビを( )で、今回付けたルビを〈 〉で示した。送り仮名・句読点は原テキストのままである。また原テキストの欠字は★で示した。「掛川へ赴任」等のサブタイトルは今回、仮に付したものである。

 

(大正2年8月26日分)

 文科大学の専科に入りて、英文学を専攻しようと思立ち、東京大学教授外山正一君を、牛込神楽坂の私邸に訪い、志望を述ぶると、篤と僕の学歴を質して、畧々<ほぼ>僕の要求を容れて呉れたから、喜んで其の方針で勉強していると、突然県庁から県会に於て掛川に中学校を新設することになったに付ては、僕を其の教員に採用するから、帰県せよという意味の通知書が到来した。此の時僕は非常に落胆したが、県命黙<もだ>し難く、明治十三年六月というに、一旦郷里沼津に帰省し、更に静岡に待命の身となって、江川町の魚万に止宿していた。偶々<たまたま>、同窓林欽亮君が静岡新聞に主筆をしていて、僕に何か書けというから、林君が東京へ行った留守中、社説を引受けて実に無責任の事を書きちらし、今から思うと慚愧に堪えぬが、当時の読者は其れでも満足していて呉れた。林欽亮君とは今の「日本」新聞社長伊藤欽亮君の事だ。僕は伊藤君を同窓中の犬養、尾崎両君と同列に取扱っている。近時伊藤君の財政意見は、卓見だという評がある。

 

 ◎文科大学の専科 ⇒ 東京大学が法医工文理の5分科大学を持つ(東京)帝国大学となったのは明治19年

  で、黒川の記憶違い。なお専科ではなく選科。東京大学予備門を卒業していない黒川は本科には入学できな

  かった。  山崎覚次郎と一緒に坪内逍遥の指導を受けた丘浅次郎は東京大学予備門に入学したが、2年続けて

       歴史科目を落としたため退学処分となり、帝国大学理科大学選科に入学した。

 ◎外山正一(1848~1900)⇒ 旧幕臣。英米に留学。東京大学教授・総長。文部大臣。

 ◎林欽亮(伊藤欽亮,1857~1928)⇒ 萩出身。慶応義塾卒業。「時事新報」編集長・社長。

 ◎静岡新聞⇒明治6年2月、静岡提醒社から発刊。その後「重新静岡新聞」「静岡新聞」と改題。明治17年に

 「静岡大務新聞」と改題。明治24年に内紛があり「静岡民友新聞」となる。

 ◎犬養、尾崎両君 ⇒ 犬養毅・尾崎行雄のこと。ともに慶応義塾を退学している。

 

  愈々<いよいよ>僕は八月某日に掛川中学校訓導を仰付けられた。而して月給二十三円というに痛く失望したが、掛川では月給取りの番付に、郡長第一、警察署長第二、僕第三、となっていた。同時に任命されたる人は、目下精華女学校にいる、新荘直義君であった。

 ◎明治13年当時、郡長(岡田良一郎)の月給は35円,警察署長(岡敏,6等警部)は未詳。

 ◎新荘直義 ⇒ 昨年の講演資料「教養館・冀北学舎・掛川中学ほか教師略歴」に記載。

 

 従来恩顧を受けた先輩諸君を招待して聊<いささ>か謝意を表したいと思って、其の周旋方を師範学校の幹事馬場正綜君に依頼して、会計の振合を質(ただし)て見ると、一人前三十五銭なら普通だと言うから、僕は八十五銭ッ、と気張って、赴任旅費の大部分を一切の費用に充て、魚伊とかいう料理店に留別の宴と言って開いたら、成程、御馳走が出るわ出るわ食前方丈孟子の夢想を実現した。磯部物外君、僕を顧みて云くサ「君、旅費が足りるかへ。」

 

 ◎食前方丈孟子の夢想 ⇒ 『孟子』尽心章句に「食前方丈、侍妾数百人」(一丈四方によそわれた食事&かし

  づく侍女が数百人)とある。(但し、孟子は「それが一体なんだ」と主張している)

 ◎磯部物外(1835~1894) ⇒ 旧幕臣。旧姓は加藤。静岡県会初代議長。「函右日報」社長。弟は

 「函右日報」発行人の平山陳平。

 

 翌日進まぬ足をあられふる遠江に向けて、任地に到着し、先ず校長兼勤の郡長岡田良一郎君を郡役所に訪ふて、応接して見ると、是より先、僕がまだ掛川に来る運命になっていなかった頃、福沢先生が、僕に、君の県の人物だそうだが、岡田良一郎という人が前日乃公の所へ来て、色々話して行ったが、何分非文明なるに困る、と言われた事が思い当りて校長の意見に敬服し兼ねた。而して学校へ行って見て、更に一驚を喫した。第一、建物はといえば、見るもいぶせき陋屋にて、書籍器械は影もなし、此処で中等教育を施すなどとは、思いもよらぬ。如何なるものかと失望した。

 

 ◎乃公 ⇒ 自分を指す一人称。オレ。

 ◎何分非文明なるに困る ⇒ 昨年の講演でも述べたが、福沢諭吉は岡田良一郎にむしろ好意的である。ここは

  岡田良一郎に対する「明治維新の負け組」黒川の反感、或いは立憲改進党及びその後継政党の機関紙であった

 『静岡民友新聞』の敵意が筆を曲げさせたのではないだろうか。(昨年の講演資料「文書5,11」を参照の

  こと)

 

 校舎に充てたる建物は、元来農学社とて、岡田君が率ゆる尊徳宗の農事試験場であった。之を殆んど新築する程の費用を掛けて、県庁で内部を改築し、農学社から借用するという、農学社に取りては至極都合よき方寸になっていたが、迷惑を感ずるのは実際局に当る僕等職員であった。

 

 斯くてあるべきに非(あらざ)れば、愈々学校を開いて見れば、五十銭の月謝を徴収する中等教育の機関へ、来て学ぶ者が僅かに十数名であった。県会は何の見る所あって斯様な土地へ、中学校を新設する事を決議したか、僕には少しも分からなかった。而して僕は遂に其の原因が内部にある事を感じた。発見したとは言わぬ。抑<そもそ>も学校には、保護人とて土地の有志者が三人あったが、殆んど有名無実であった。兎に角〈とにかく〉郡長は佐野城東両郡の羅馬〈ローマ〉法王で、校長は別に自宅に冀北学舎という私塾を開いていた、という事を知らざるべからず。

 


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「掛中・掛西高の伝統を考える」(三谷充弘 2016.11.12講演)
三谷充弘「掛中・掛西高の伝統を考える」 講演20161112.pdf
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