第22回

東京の横須賀藩士たち(6)

                      ㈱トライフ監査役・静岡ロジスティクス㈱監査役 三谷充弘(高26回) 

 


鵜 飼 東 二

敬 香 遺 集



 

 従来、花房藩士(横須賀藩士)の名簿は『鴨川市史』資料編2(鴨川市/1992年)所載の御用廻船問屋弥兵衛作成の「花房藩役人一覧」(72人収録)が頼りでしたが、その後、色々な方のご協力によって、5種類の名簿が集まりました。

 

(A)明治2年「花房藩士席順調」:『新訂 吉尾村誌』(鴨川市史編纂室/1995年)所載,395人収録

(B)明治3年「花房藩席帳」:『花房藩』(鴨川市郷土史研究会/1998年)所載,419人収録

(C)明治3年「花房藩役人一覧」:『鴨川市史』資料編2(鴨川市/1992年)所載,72人収録

(D)明治4年()「花房県歴史 付録官員履歴」:国立公文書館デジタルアーカイブ,72人収録

(E)明治39年「旧花房藩士族姓名」:『花房藩』(鴨川市郷土史研究会/1998年)所載,496人収録

(※花房県は明治4年7月~11月の短期間存在し、木更津県に統合された)

 

 この結果、新しい知見や既往の誤りにいくつか気が付いたので、追加・訂正をして「東京の横須賀藩士たち」の中締めとしたいと思います。

 

 まず第1回に「岡山定基は家老に次ぐ元締職になった」と書きましたが、これは(C)に引きずられた誤りで、家老(年寄)に次ぐのは用人です。明治2~3年の年寄(5人)・用人(10人)は全て知行取りですが、元締役(2人)は知行取りよりは格下の蔵米取りです。

 また岡山兼吉の最初の養家である三好家は、三好久次郎(給人28歳。役職と年齢は明治3年時点。以下同様)と三好久之進(中小姓格37歳)とがいますが、岡山兼吉は当時16歳ですから、久之進家でしょうか。

 2番目の養父である赤岩亀六(給人40歳)は特定できました。

 

 次に第2回に「永冨謙八は一時、大蔵省に出仕した」と書きましたが、(D)により、明治4年9月7日(廃藩置県の約2ヵ月後)に大蔵省検査大属に任命されたことが判りました。永冨謙八がいつまで大蔵省に在籍していたかは不明ですが、明治5年2月に大蔵少輔となった渋沢栄一が翌3月には検査寮ほかの事務取扱を命ぜられているので、少なくともこの時点までは在籍していたものと思われます。

 また明治3年当時、永冨謙八(当時は雄吉)は用人32歳、岡山定恒(多一郎)は近習22歳であったことも判り、『当世書生気質』に出てくる銀行家の三好・園田と年齢がほぼ合致しました。

 また「浅田正文は15歳の時には藩の計算吏に挙げられた」と書きましたが、浅田正文(左太郎)は明治2年には徒士・地方勘定見()14歳であったことが判り、『信用公録』(明治36年)の記述が裏付けられました。

 

 次に第3回に「この写本中に鵜飼東一と連署している文書がいくつかあるが、鵜飼常親との関係は不明である」と書きましたが、「鵜飼東二」の誤りです(画像をご覧ください)。鵜飼常親は(D)(E)に記載されているので花房藩士であることは疑いありませんが、(A)(B)(C)には記載されていません。

 (D)によると、青山源三(用人46歳)は明治2年11月12日に花房藩権大参事に就任し、同じ権大参事に青山儀一郎(年寄43歳)がいるため、同年12月24日に柴田源三と改名しています。すると中川東二(吟味役39歳)が何らかの理由で鵜飼東二に改名したのかもしれませんが、想像の域を出ません。

 ただ鵜飼常親は岡山定恒(近習22歳)の岳父ですから、中川東二(吟味役39歳)とすると年齢は合います。

 いずれにせよ、明治4年に永冨謙八(用人32歳)、青山管治(おそらく青山勘治。近習取次38歳)、岡山庄平(おそらく岡山定基。元締役62歳)と連署しているほどの人物ですから、根気よく探せば何らかの材料が出てくると思っています。

 

 次に第15回の「掛川銀行の東京府での大口出資者」の株数を間違えていました。永冨謙八の持ち株は200株ではなく、150株です。また50株所有の土屋松吉は群馬県立史料館の「西尾忠篤様使者土屋松吉 差出 口上手扣勝順殿を養嗣子に貰承けたき旨」で花房藩士(横須賀藩士)であることは判っていましたが、明治3年時点では坊主扶持方斗21歳でした。父は土屋徳三郎(地方勘定44歳)です。

 また谷安規は(E)に記載があり、花房藩士(横須賀藩士)であることが判りました。つまり掛川銀行の東京府での50株以上の大口出資者は花房藩士5名と花房藩主の弟1名であって、掛川市ホームページ内の『掛川銀行小史』の「東京在住の高級士族富永謙八郎(ママ)・岡山定恒(旧掛川・横須賀藩士族)等も加わった」という記載は誤りです。

 なお、谷姓は(A)(B)に5名〔治大夫(用人45歳)・内蔵太(供頭40歳)・亀五郎(給人4歳)・勝七(徒士)・金平(勝七の子。坊主30歳)〕記載されていますが、誰が安規なのかは不明です。

 

 次に第21回に「逍遥の春廼屋に寄宿していた千葉県士族の墓が鴨川市にあるということは、飯田万吉は慶応元年(1965年)生まれの横須賀藩士だったと考えて良いでしょう」と書きましたが、書いた当時はあくまで状況証拠だけでした。(①春廼家に寄宿,②千葉県士族,③墓は鴨川市にあるという3条件を備えた人は、掛川藩士や相良藩士や佐倉藩士ではなく、横須賀藩士であると見るのが妥当と判断しました)

 しかし前回(第21回)掲載した『古人今人』の飯田万吉の訃報記事に見えた「令孫恒雄君」が、1998年に鴨川市郷土史研究会が行った「花房藩士子孫名」の調査(前掲『花房藩』所載)に飯田郡左衛門(広敷番62歳)の子孫として挙げられており、飯田万吉の墓所や係累も判明しました。従って飯田万吉は横須賀藩士です。

 なお現存の人物に関わることですから、これ以上の記述は差し控えます。

 

  最後に3年前の講演資料の大江孝之(冀北学舎の最初の英語教師)の経歴を訂正しておきます。

 

 講演資料に「慶応義塾を卒業(*)後、東京大学で理財学を専攻する(**)も、病のため中退。(*)卒業生名簿で確認できない。(**)「東京開成学校一覧」で確認できない。」旨を書きましたが、これはレファレンス協同データベース(国会図書館が全国の図書館等と協同で構築する調べ物のための検索サービス)の「大江孝之は、明治前期に東京大学に入学し、病気の為中途退学したといわれています。入学年・学部・中途退学した時期を教えてください。」という質問に対し、東京大学図書館が調査プロセスを含め概略このように回答しているものです。

 

 東京大学図書館では『敬香遺集』(大江武男/1928年/非売品)を所蔵していないので、このような回答になったのでしょうが、『敬香遺集』を見ると、大江は明治7年春に外国語学校(※)に入学しています。

(※:明治6年8月設立の東京外国語学校。同7年12月に英語科が分離独立して東京英語学校となり、同10年4月に東京開成学校予科と合併して東京大学予備門となる。東京開成学校本科は同日、東京医学校と合併して東京大学となる)

 慶應義塾の卒業生制度が開始されたのは明治7年4月からですし、大江はその後、脚気のため遠田澄庵(当時一二を争う脚気治療の漢方医)の勧告で帰郷していますから、「東京大学で理財学を専攻」ということには無理があります。東京外国語学校が東京大学予備門となったため、このような誤解が生じたのではないでしょうか。

 

 以下余談。遠田澄庵の脚気の治療法は、白米を断って小豆・麦等を与えるという、今日から見て実に合理的なものでした。澄庵の孫娘の澄子は海軍中将赤松則良の長男の範一に嫁いでいますから、森鴎外の最初の妻の赤松登志子とは義姉妹になります。

 その鴎外が(鴎外に限らず東京大学医学部卒のエリートたちが)、鹿児島医学校卒(非エリート)の高木兼寛が海軍で実施した兵食改革(米食⇒麦飯・パン)に見向きもせず、陸軍では米食を主張し続けて、脚気による大量の死者を出したのは皮肉な気がします。

 鴎外は確かに偉大な文学者ですが、完璧な人間というものは此の世にいないものですね。