第20回

『百二十年史』への思い 

                             特種東海製紙㈱常任監査役 三谷充弘(高26回) 

 



万国公法

佐久間貞一

臼井藤一郎顕彰碑

山本安次郎



一昨年の総会の講演で「静岡県の高校で藩校がルーツと言えるのは掛川西高だけなのだから、もっとその歴史を大事にしたら?」というご提案をしましたが、例えば福岡県立育徳館高校は明治12年設立の(旧制)福岡県立豊津中学校が、戦後の学制改革で福岡県立豊津高等学校となり、平成19年に小倉藩校の名前を復活させて、福岡県立育徳館高等学校と改称したものです。


掛川東高は掛川西高の西に移転してしまったので、掛川西高も教養館高校と改称してはどうかと思うのですが、でも本当に教養館高校なんて名前になったら気恥ずかしいでしょうね。


(ちなみに沼津東高校は沼津市東部の香貫山の麓にあったため命名されたものですが、沼津市北部に移転して51年後の現在も名前を変えておらず、同窓会も香貫山を意味する香陵同窓会のままです。筑波大学はさすがに東京教育大学の名を引き継げませんでしたが、同窓会は茗溪会のままです。なおご存知の方も多いと思いますが、茗溪とは神田川の雅称です)

 

また講演の時にもお話しましたが、明治初期の「教養」は現在の「教育」の意味で使用されており、その初出は明治4年刊行の中村正直訳の『西国立志編』(サミュエル・スマイルズの『Self-Help』の翻訳書)とされています。その11年前の万延元年に掛川藩校が「教養館」と改称されたのは、漢訳聖書に「教養」の語があったからではないかと想像していますが、確認できていません。また坂本龍馬の「いろは丸事件」で有名な漢訳万国公法の出版は1864年ですから、これに由来するものではないと思われます。

 

『西国立志編』は福沢諭吉の『学問のすすめ』と並ぶ明治初期の2大啓蒙書ですが、中村正直は明治5年に『自由之理』(ジョン・スチュワート・ミルの『On Liberty』の翻訳書)を刊行しています。この序文を書いているのが、明治22年に山崎千三郎の招聘を受けて掛川の蕩々会で講演した明治3大漢学者の南摩綱紀(会津藩士,当時 高等師範学校教諭)で、不思議なご縁を感じます。


一体、南摩と山崎千三郎とを仲介したのは誰なのか。実践女子短期大学の小林修先生によると「小笠郡相草の双松学舎の橋本寉堂とも想像されるが詳らかではない」(日本古書通信 2018年1月号)とのことです。私も全く想像がつきません。


ご縁のお話をもう一つ。大日本印刷の前身である秀英舎(明治9年創業)は明治10年に日本初の国産活版洋装本『改正西国立志編』を発行し、大ベストセラーとなりますが、初代舎長(社長)は沼津兵学校掛川支寮の学生であった佐久間貞一で、二代目舎長は支寮の頭取(校長)で佐久間の義兄でもあった保田久成です。『掛中掛西高百年史』は「実業界で活躍した佐久間真一」「保田鈼太郎」と表記しており、偶々私は製紙会社に勤務しているので、「佐久間貞一」「保田久成」だとピンと来ますが、「佐久間真一」「保田鈼太郎」で判る人は少ないでしょう。


『掛中掛西高百二十年史』のために、あと3点、沼津兵学校掛川支寮関連の誤りおよび不適切な表記を指摘しておきます。


まず「工科大学に入り、工学士として造船大監に栄進した臼井藤五郎」という記述がありますが、臼井は明治14年に「工部大学校」を卒業しています。工部大学校は、明治4年に工部省所管の工学寮として設立され、明治10年に工部大学校と改称し、明治19年に文部省へ移管され、帝国大学工科大学となります。言うまでもなく、現在の東京大学工学部の前身です。


また臼井藤五郎ではなく、臼井藤一郎です(臼井藤五郎は浦賀奉行所の役人で、藤一郎の父になります)。臼井藤一郎はイギリスで戦艦「三笠」「朝日」の建造に携わり、日露戦争の勝利に貢献しましたが、日本海海戦(明治37年5月)直後の同年8月に逝去しました。墓は横須賀の東福寺にあり、「臼井君碑」という題額は東郷平八郎によるものです。


また「海軍の機関総監になった山本安次郎」という記述がありますが、山本安次郎の最終階級は海軍機関中将です(明治43年9月17日付け官報による)。明治39年に海軍の制度が変わり()、機関総監が機関少将と機関中将とに改められたため、山本は機関少将となり、明治43年に機関中将に昇進し、明治44年に予備役へ編入されたのです。


()日露戦争における機関科の活躍が評価されたため、機関科士官の呼称が兵科将校に準じた呼称に変わり、最高位として機関中将が新設された。

 

僅か100字足らずの文章に5ヵ所も瑕疵があり、私の愛する掛西的シュランペライ(いい加減さ)全開ですが、当時はパソコンから国会図書館のウェブサイトにアクセスすれば、官報・職員録等が容易に閲覧・検索できる環境ではなかったことを言っておかねばフェアではないでしょう。


『掛中掛西高百年史』は1995年6月に第1回編集会議が開かれ、開校百年目の2000年8月に上梓されています。そして21世紀に入ってからのWeb上の情報量の爆発的な増加は言うまでもありません。


この「歴史探訪」にしても、1990年代だったら「どこにどんな資料があるのか」すら分らない状況で、「山崎覚次郎が坪内逍遥の個人的指導を受けられたのは何故か?」「黒川正が外山正一に個人的な進路相談ができたのは何故か?」と疑問に思っても、横須賀藩家老の永冨謙八や新潟奉行の川村修就にたどり着くことはできなかったでしょう


ましてや岡田良一郎が福沢諭吉に冀北学舎への教師派遣を依頼していたり、林惟純が慶応4年に会津藩の嘆願書を西郷隆盛に渡すべく、品川沖合いでの密談を手配していたなんて、知る由もなかったと思います。


つまり現在の我々は、『百年史』編集当時と比べると、前史部分については大きなアドバンテージを持っているということです。明治期の「校友会誌」を現在の我々が読み返せば、20年前に比べ、桁違いの情報を収集できるのではないかと思います。


『百二十年史』はDVD版記念誌になると聞いていますが、『百年史』が当時の最高水準の著作を目指したように、現時点で望みうる最高水準の内容になってほしいと願っています。

 

ご愛読ありがとうございました。良いお年をお迎えください。