第11回

金城隠士「掛川時代の回顧」 (3) 結婚生活

 

 

                           特種東海製紙㈱常任監査役 三谷充弘(高26回) 

 


小幡 篤次郎

阿部 泰蔵


 

(大正2年8月28日分)

 

  時の古今を問わず、洋の東西を論ぜず、婚姻はいつも、人生の大問題になっている。結婚は人生の殆ど全部である。僕の経験に因ると、人は之が為に楽しみ之が為に苦しんでいる。僕も当時多分に洩れず、此の問題に逢着して少なからず一時は頭を悩ました事がある。今日まで独身生活に慣れて別に不自由にも感じなかったが、他より注意さるると、遂に動かされて、其の気にもなる。其の春、春廼屋朧の新著、書生気質の中に、西洋人の語を引いて、「独身者は気楽だがつまらない、女房持はうるさいが、家庭の興味がある。」と、いうような文句があって、其れにも多少動かされたのだ。何故というに、自身の境遇が現在実に其れで、気楽ではあるが、学校から帰りても、寄宿では、やはり生徒相手で、常住坐臥、言行にも注意せねばならず、純粋の書生生活で、同輩と縦断するような訳には行かぬからだ。併しながら、俄<にわ>かに之を断行するに至らなかったというには、別に理由が存していた。 

 ◎春廼屋朧(坪内逍遥)の『当世書生気質』が最初に出版されたのは明治18年で、黒川が掛川を去った後であ

  る 。なお春廼屋とは横須賀藩元家老永冨謙八が逍遥のために建てた住居兼寄宿舎で、逍遥の指導を受ける寄宿生山崎覚次郎・丘浅次郎・永冨雄吉・鈴木虎十郎など、冀北学舎卒業生及びその関係者が過半を占めていた。

 ◎西洋人の語を引いて⇒『当世書生気質』第14回「近眼遠からず 駒込の温泉に再度の間違」に、“ジョンソン翁が寓言の中にて、Marriage has many pains,but celibacy has no pleasures.(女房持には苦労多く独身者には楽なし。)と穿ち貌にて述べられたり”とある。(「近眼遠からず」は「殷鑑遠からず」のもじりであろう)

 なおサミュエル・ジョンソン(1709~178)の妻は20歳年上の未亡人、逍遥の妻は根津遊郭の娼妓であるが、ともに仲睦まじい夫婦だったようである。(「Marriage has many pains~」は、ジョンソンの唯一の小説『アビシニアの王子ラセラスの物語』に出てくる言葉) 

 

 小幡篤次郎君は、福沢先生に次で僕が尊信していた、僕の経済学の先生であった。僕が県庁から召還された時に、小幡君の許へ暇乞いに行ったら、僕に将来の心得をといって一言述べられた事は、「君が国へ帰りて、第一に起こる重大問題は、結婚問題であるに違いない、実は結婚問題は、金銭問題だ。故に今の時勢では、月に百円以上の収入があって、初めて決行すべきだ。阿部泰蔵君は、先に文部省へ出て九十六円の収入があったがもう四円なければ、妻を迎えぬと言って麻布の下宿から、通勤していたが、面白い心掛けではないか」いうので、僕は之を神に書しておいた。

 ◎小幡篤次郎(1942~1905)⇒福沢諭吉と同じ中津藩士。慶応義塾塾長。貴族院議員。

 ◎阿部泰蔵(1849~1924)⇒吉田藩士。明治14年、明治生命保険会社を設立し、社長。

 ◎神に書しておいた⇒「紳に書しておいた」の誤植。『論語』衛霊公篇が出典。

    紙がない時代に紳(ベルト)に書きつけて心覚えとしたこと。

    なお、コナン・ドイルの『バスカヴィル家の犬』に、モーティマー博士がシャーロック・ホームズ の伝言をカフスに書き留める情景があるが、19世紀の英国では日常的な風景だったようで ある。

 

   ところで、当時僕の収入如何と顧みれば、百円の三分の一にも足らなかった。東京に居た時、薄々承知していたのは、四十円であったに、先方から外れて、既に白状した通りで、トエンチー・スリーだ。しかも、其内から一家五口を扶持する補給にと十五円を割(さい)て郷里へ送っていたから、余す所幾〈いく〉何(ばく)ぞ、到底妻帯の資格はない。さればとて百円以上の収入は殆ど百年河清を待つの類だ。居る一年有半遂に人生の大問題は解決されて見ると、僕の生活状態は俄然一変した。然り一変した。大変しなかった。唯々寄宿がホームに化しただけの事だ。財産あるに非ず。僕婢を使うに非ず、戸籍面が一夫一婦となって、中西に一家を構へ、町費を負担したに止まった。しかし物価は今から見ると安かった。八畳二間六畳一間二畳一間台所が附いて前に庭園あり、後に空地あり、黐花多所別開門。といったような家の家賃が、僅かに一円六十銭であった。僕此の楼を松香閣と呼んで夫妻唱和の処とした。一日、置塩藤四郎君公務を帯びて、静岡より来り快談寛日、僕の為に七絶一首を賦して贈らる。能く常時の実況を尽す。琴瑟密々好夫妻、把泊慇懃留馬蹄、欲寄乃翁書一紙、松香閣表酔如泥、と。置塩君は僕の父の友人にて、又僕の詩友なりき。久しく伊勢太廟に奉仕して居られたが、聞く所によれば、近時退隠されたそうだ。令息章君亦僕の教壇下に立った事がある。先ごろ大阪市役所の建物設計の懸賞に、三等賞を得たり。乃翁の喜知るべきのみ。 

 ◎中西⇒現在の掛川市に中西という地名はない。城西1丁目の中西屋食堂の辺りだろうか。 

 ◎黐花多所別開門⇒杜甫の永泰元年の「絶句四首の一」の「堂西長筍別開門」を踏まえたもの。

  庭園に黐(もち)の花が多いので、別に門を作り、通路を増やしたということだろう。

 ◎置塩藤四郎⇒島田宿の下本陣を世襲する置塩(おしお)藤四郎のことだろう。明治13年9月の『静岡県職員録』に「17 等出仕 置塩藤四郎」と見える。

  なお下本陣の「下」とは格式ではなく、上野・下野や上総・下総と同様に、京都から近い順に上本陣(村松九郎治)、中本陣(大久保新右衛門)、下本陣(置塩藤四郎)があり、それぞれ代々世襲していた。

 ◎乃翁⇒老人が自分を指す一人称。

 ◎僕の父⇒関宿藩家老の木村正則(1829~1889)。彰義隊とともに戦って敗走し、一家離散。

  従弟の山田楽とともに沼 津に移住し、山田大夢と改名。明治3年に横浜の茶商で丁稚奉公をしていた嫡男の黒川正(木村正節)を沼津へ引き取る。

    山田大夢が母・妻・子守り奉公をしていた娘のみわを沼津へ引き取ったのは明治5年3月で、その経緯はみわ の曾孫であるエッセイスト中野翠の『いちまき』に詳しい。 廃藩後は、集成舎(沼津東高の前身)校長・静岡師範学校長・静岡中学(静岡高校の前身)校長・豆陽中学(韮山高校・下田高校の前身)校長などを歴任。

 ◎令息章君⇒置塩章(1881~1968,おしおあきら)。島田出身。関西で活躍した建築家。

 

  慶応義塾の山名次郎君、頃来東京より来り、相会したる時、明治生命保険会社長阿部泰蔵君の財産は、優に百万円以上あると言った。顧るに僕の身代、猶未容易に、百万に至らず。昨夜偶々柳句会に「風呂敷」の題あり。僕が「財産を挙げて風呂敷包にし」と吐きたるもの、蓋し夫子自ら道〈い〉うなり。而して今や最愛の妻も亡矣(なしや)。僕豈に地下の小幡先生に対して忸怩たらざるを得んや。

 ◎山名次郎(1864~1957)⇒明治~昭和期の教育者・実業家。慶応義塾卒業。同塾評議員。

 ◎最愛の妻⇒曾孫の市原正恵さんによれば「旧旗本金田家三女(名不詳)」。 沼津兵学校附属小学校の同窓生である金田綾太郎(父は金田房延)の姉妹か