第10回

金城隠士「掛川時代の回顧」(2) 校長と教頭

 

                             特種東海製紙㈱常任監査役 三谷充弘(高26回) 

 


江原  素六

杉原 正市


 

(大正2年8月27日分)

 「抱いた児に、負うた児」。岡田良一郎君が、私の冀北学舎と、公の掛川中学校を見る、常に此の観念を離れなかった。其の彼に厚く、是に薄きは、事々に現れてはいたが、現任のまゝ普通科教員末吉英吉君を、中学校より冀北学舎へ連れて行って、教授をさせておいたなどは、事実の最も明白なるものだ。僕に斯くの如き事実が見えていた間は、愉快に学校が経営されなかった。岡田君は当時静岡県での人物であった。駿河の江原素六君と東西の両大関なりき。僕も岡田君は偉人だと信じていたが、驕慢の性は大いに其の徳を累(わずらわ)した。実に其れが為に蹉跌した。僕は彼の有名なる三郡長免官事件を以て、之を證する。抑も其の事件とは、新聞紙の報じた所に依れば、岡田郡長は他二郡長と連署して、大迫知事を排斥し石黒大書記官を其の後釜に据える運動を試みた事である。流石<さすが>、寛仁大度の県知事も、此の時ばかりは、怒髪、冠を衝たと道聴途説。

 ◎末吉英吉⇒昨年の講演資料「教養館・冀北学舎・掛川中学ほか教師略歴」に記載。

 ◎江原素六(1842~1922)⇒旧幕臣。維新後は静岡県下で殖産興業と教育事業に取り組み、県会議員、

  沼津中学校長などを務める。のち衆議院議員、貴族院議員。

 ◎三郡長免官事件⇒これは黒川の誤りで、罷免の原因は「浜松県再設置及び(当時)福井県令石黒務の浜松県令

  就任」を内務卿山田顕義に嘆願したことによる。また『東海三州の人物』に収録された「大迫貞清君」(元々

       は「静岡民友新聞」に掲載)にも殆ど黒川と同じ記述があるが、「新聞紙の報じた所」とは、或いは此れを指

    すか。

  なお、岡田良一郎の長男岡田良平の妻、操子は石黒務の次女である。『現代評判美人の戸籍しらべ』(大正8

  年,天下堂書房)によると、「色白のふくよかな奥様である。が、岡田氏の引込主義に反して、令夫人が交際

  場裡に能く斡旋する方であるのは、こゝが調和があると云ふのであろう」の由。

 ◎大迫知事⇒大迫貞清(1825~1896)。旧鹿児島藩士。初代静岡県令。明治16年警視総監。のち元老

  院議官,沖縄県令,鹿児島県知事を歴任。貴族院議員。子爵。

 ◎石黒大書記官⇒石黒務(1841~1906)。旧彦根藩士。浜松県参事。静岡県参事・大書記官。明治14

  年福井県令。

 ◎道聴途説⇒『論語』陽貨篇が出典(正しくは「道聴塗説」)。道ばたで聞きかじったことを 、すぐにまた道

  ばたで自説のように、他人に話すこと。 

 

 抑も岡田郡長の免官は、岡田校長の免官を意味し、幸か不幸か、掛川中学校に一転機を与えた。爾来久しく物色されたる専任校長は、遂に之を志賀雷山君に見出した。是より先漢文教員に適任者を得ずして困っている内に、林惟純君が静岡より二十五円から四十円に一躍して、転任して来た。すると、函右日報は叙任欄内へ、ドエライ御増給で御座ると評語を附した。成程、静岡県では一時に十五円の増給といっては、其後杉原正市君が浜松中学校長から、静岡中学校長に栄転された時の場合が、もう一つあっただけだろう。

 ◎志賀雷山⇒昨年の講演資料「教養館・冀北学舎・掛川中学ほか教師略歴」に記載。

 ◎林惟純⇒昨年の『東京冀北』の「前期掛川中学初代教頭 林惟純 小伝」に記載。なお「小伝」では「(林惟純

  は)明治17年には静岡県御用掛準判任となるが、これは当時、静岡県令となっていた関口隆吉の引きによる

  ものだろう」としたが、明治16年9月の『静岡県職員録』(県令は大迫貞清)に「御用掛准判任 地誌国史編輯

  林惟純」と出ていたので訂正します。

 ◎函右日報⇒明治12年6月、参同社から発刊。発行人平山陳平。翌年、平山の兄、磯部物外を社長とした函右

  日報社を設立し、同社から発刊。 ◎杉原正市(1847~1927)⇒旧徳島藩士。明治11年浜松中学校

  初代校長。明治19年静岡中学校長などを歴任し、明治33年私立静岡精華女学校を創立。

 

 林君は教場で、一寸怒る癖はあったが学力は充分以上であった。其の勤倹力行は、到底尋常人の及ばぬ所があった。先生僕等と共に寄宿舎住いをしていたが、二畳敷の小室に立籠って、夏時、黄昏より一歩も外へ出る事をしなかった。先ず団扇で、室中の蚊軍を撃攘し、障子を締め切りて、之に目張りをし、一室を蚊帳として寝るという、極めて蒸し暑い趣向を凝らしたものだ。又時によると、土曜日の午後より、日曜日に掛けて、静岡へ帰る事があったが、其の時は必ず膝栗毛に鞭打って行くのであった。斯く難行苦行して、己を持していたから、外見、大に岡田校長と、肝胆相照しそうであったが蟷螂の斧を振り廻した。僕の方が校長には却って信じられていた。

 ◎学力は充分以上であった⇒「掛川時代の回顧」に先立つ「静岡時代の回顧(6)」に「此の比、林惟純といふ

  資格の判然せぬ先生がゐた。此の人事務は得意でなかったが、立派な漢学者で、頻りに英語を研究してゐた。

  (中略)併し僕は林君の精力絶倫なるに深く敬服した」とある。

 ◎膝栗毛に鞭打って行く⇒(東海道線が開通前なので)徒歩で掛川から静岡まで帰ったこと。

 

 林君の任期は余り長くなかった。後任者は三河で有名な、曽我耐軒という儒者の次子で遠江で評判の県会議員近藤準平君の令弟たる、堀内政治郎君であった。堀内君は極めて真面目な、正直の君子人だ。或る生徒が、堀内先生は品行方形の士だというたのは、一面の真理を道破したものだ。

 ◎近藤準平(1841~1900)⇒旧岡崎藩士。明治12年静岡県会議員。明治23年衆議院議員。

 ◎堀内政治郎⇒昨年の講演資料「教養館・冀北学舎・掛川中学ほか教師略歴」に記載。