第4回

補遺(1)柳生寧成,鈴木陸老,青島泰

                             特種東海製紙㈱常任監査役 三谷充弘(高26回)

 

      「冀北学舎同窓会(昭和3年5月6日/前列右から2人目:山崎覚次郎,同左端:永冨雄吉)」

 

 昨年の「冀北」に寄稿した「掛川中学初代校長柳生寧成について」について、補足したい。

 拙稿では「柳生寧成は明治初期に掛川藩の転封先の芝山・松尾で英学を学んでいたのだろう」と推測し、その根拠に明治2年9月付けの『太田備中守様御役附控』に「御目付掛柳生起之助様」が記載されていることを挙げた。

 その後、千葉県の松尾藩資料館で、松尾藩の『士族卒什伍組合名前』に「柳生周作(寧昌。寧成の父)士族,柳生東兵衛(寧治)卒族,柳生廉直(対助?)卒族」の名前を確認し、柳生寧成が芝山・松尾に居たことに確信を持てたが、御目付掛の柳生起之助とは誰なのかという点は、その時点では分からなかった。

  もともと柳生周作は11石取りと微禄の家柄であり、掛川藩の上級・中級武士の記録である『役儀歴代』(※注1)にも柳生姓の記載はない。(※注1:松尾の朝比奈家所蔵。掛川市立図書館に見やすく整理された資料が架蔵されているが、惜しいことに東<トウ>家を<ア>に分類する等の瑕瑾が見られる) 

  その後、『芝山町史 資料集4』を見ると、いろは順の『御家中名前帳』(明治2年3月)に「山中村:柳生対助,同周作,山室村:柳生東兵衛」が記載されている一方、居住地別の『芝山藩士仮住居村々覚帳』(明治2年3月)には「山中村:柳生対助,同周作,同記之助,山室村:柳生東兵衛」が記載されていた。ということは、柳生起之助(記之助)は柳生周作の近親者なのだろう。あるいは、原本の表記を見ないと分からないのだが、周作の別名かもしれない。起之助が柳生寧成本人だとしたら興味深いのだが、数えの13歳だから、それはないと思う。

  柳生寧成が明治8~9年に学んだ「東京浅草変則私学校(※注2)についても補足しておきたい。(※注2:『慶応義塾百年史』では「誓願寺変則英学塾」。ともに固有名詞ではなく、「東京浅草変則私学校」とは「東京浅草で日本人が英学を教える塾」、「誓願寺変則英学塾」とは「(浅草)誓願寺で日本人が英学を教える塾」という意味である。なお米英人が英学を教える場合には「正則」となる)

 実は東京浅草変則私学校の英学教師の茂木春太(東京府あての私学開業願では「茂木真多」)と弟の茂木重太郎は日本ペイントの創業者である。そこで『日本ペイント百年史』(昭和57年)を見ると、茂木兄弟は大和郡山藩士で、旧藩の育英資金で春太は明治3年に慶応義塾に入塾し、重太郎は明治6年に上京したものの、14歳と若年であったため慶応義塾に入れず、先ず誓願寺変則英学塾に入り、翌明治7年に慶応義塾に入塾したことが分かる。すると誓願寺変則英学塾慶応義塾の予備校的な存在だったのだろうか

 明治8年に19歳になっていた柳生寧成が慶応義塾ではなく、東京浅草変則私学校(誓願寺変則英学塾)で学んだのは英語力の問題なのか、学費の問題なのか、別の要因なのかは未詳であるが、『掛中掛西高百年史』が記載する柳生寧成の略歴は本人の回想録のような何かの原資料を基にしていると思われるので、いずれ分かる日が来るだろうと思っている。(おそらく「校友会誌」に柳生寧成の回想録が掲載されていたのではないかと想像している)

 

 次に昨年の講演で未詳とした冀北学舎漢学教師の鈴木陸老『蕩々会講義録』執筆者の青島泰とについて補記しておきたい。 

 

 鈴木陸老は『嶽陽名士伝』(明治24年。講演で明治18年刊行としたのは誤り)の「岡田良一郎君之伝」に「維新の時、鈴木陸老なるものあり。掛川の人。慷慨時事を談ず。君(岡田良一郎)、之れ(鈴木陸老)と交わり好し。陸老、藩主の命を領し、屡(しばし)ば京摂(京都・摂津)の間に往来し、会藩(会津藩)の士に親しみ、志、佐幕にあり。君、之れと意を同じうす」とある。掛川での佐幕派のフィクサーだったのだろうか。「会藩の士に親しみ」ということは、会津藩公用方(外交官)だった林惟純が前期掛川中学の初代教頭として赴任してきたことと、何か関係があるのかもしれない。

 なお岡田良一郎はこの後、父の佐平治から諭されて、佐幕派から勤王派に転向している。

 

 なお「東京の横須賀藩士たち」では触れなかった鈴木虎十郎(1866~1895)についても、ここで述べておきたい。掛川宿仁藤の町年寄だった鈴木陸平(鈴木陸老とは別人)の子、鈴木虎十郎は冀北学舎の最後の卒業生の一人で、明治17年に卒業後、山崎覚次郎・丘浅次郎・永冨雄吉らとともに坪内逍遥の指導を受け、明治18年に海軍兵学校に入学した。 

 同じ時期に逍遥の指導を受けた長谷川如是閑の『逍遥先生のある一面』によると、「鈴木虎十郎という人は(中略)海軍兵学校に入って、日清戦役に少尉で出征して、開戦早々の威海衛の攻撃で戦死したが、もし生存していたら相当の所まで行った人と思われる。山崎覚次郎氏は予備門の学生で、体格は小さかったが、中々腕力家で相撲も強かった。山崎氏が或る日、永冨氏と食堂で口論をやって、遂に組み打ちとなったが、大きい永冨氏を小さい山崎氏が押えつけた所に、物音を聞きつけて先生が入って来られたのを知らずに、山崎氏は永冨氏の顎を抑えて、頭を畳に押しつけてギュウギュウ云わせているのを、先生が苦い顔で黙って見て居られた光景は、今も私の目にありありと残っている」とのことである。確かに昭和3年の冀北学舎同窓会の集合写真を見ると、座ってはいるものの、永冨は山崎よりも頭一つ大きなようで、何となく可笑しい。

 

 青島泰は藤枝の田中藩士である。天保元年(1830年)の生まれだから、『蕩々会講義録』第2号が発行された明治22年には59歳になる。他の執筆者も太田有終が60歳,堀内政次郎が42歳,小山朝弘が62歳,南摩綱紀が66歳と、堀内以外は当時の後期高齢者と言っていいだろう。

  青島泰は『嶽陽名士伝』によると、弘化2年(1845年)に藩校日知館の句読師となり、田中藩が明治維新により安房国長尾に転封されたため、同地に移住し長尾学校に奉職した。

 明治6年に静岡県に移り、明治7年に掛川小学校(校長は幕臣の岡田清直<後述>である)の教員となった。明治14年頃に辞職し、その後は自宅で漢学を教えていたようである。『嶽陽名士伝』は「大家・学士・顕官等の君の門に出る者多し」とするが、具体的な人名は挙げていない。